あーりおおーりお

散文や備忘録

コンテンツ・ツーリズムってなんやろか?(其の壱)

今回は、半分備忘録的サムシングということで。

 

さて表題にあるように「コンテンツ・ツーリズム」(俗に言うアニメや漫画コンテンツなどの「聖地巡礼」)のお話を。

先日、ゆゆゆ(『結城友奈は勇者である』)の主要な舞台となった香川・観音寺で「讃州中学文化祭in観音寺市」と銘打ったご当地イベントが開催されたり*1、"よしさみ"なる「全国アニメ聖地巡礼サミット」という集まり*2があったりと「聖地巡礼」に関わる(主催以外の参加者の立場含む)人口、ほんと増えましたよね。その辺のオタクと話していても「聖地巡礼」ネタがどこかしらで触れられたりするの、皆さんも心当たりありませんか?

うちが見ている限り、ここ1年くらいは大洗や沼津を「聖地巡礼」目的で訪れるのがどうやらトレンドみたいですね。それも、従来の「聖地巡礼」行動で見られた舞台探訪*3の形態よりかは、それプラス現地で食やアトラクションを楽しむ余暇的な観光を交えた形で「聖地」へ赴く旅をしたいという需要が大きそうですが。要は、

ガルパンはいいぞ!」

と頻りに言ってるTL上のガルパンおじさんたちのことです。そういうわけで"今の"オタク(作品ファンなど)たちにも、また「コンテンツ・ツーリズム」などという洒落た横文字で売り込みにくる観光コンサルやそれに乗っかりたい自治体や商工会(地域)にも、聖地巡礼」=観光の一形態というイメージが刷り込まれていってるわけですね。要は、観光需要を満たすための「聖地巡礼」ビジネスモデルの確立が求められようとしている時代に入ったのかなとも思います。

 

さて、この風潮に対して自分としては「ちょっと待てよ?」というのが今回の本題です。「どういうこと?」と突っ込まれそうなんですが、この流れってコンテンツや地域自体の持続可能性をかえって縛ってしまうんじゃないか?とおぼろげに思うわけなんですよ。

というのも、Twitter(チラシ裏の落書き)上だけではなく、ちょっとアカデミックな「コンテンツ・ツーリズム」研究の領域においても、「聖地巡礼」現象が起きている地域に対しては「地域(自治体など)」と「オタク(ファン)」(と「コンテンツホルダー」)の協働体系が上手く機能しその結果、観光産業として成立することを理想に掲げがちな側面があります。一概には言えませんが、元々観光客を受け入れる土壌やキャパがあった「観光地」をモデルにした作品のコンテンツ・ツーリズムに現状ではスポットライトが当てられるようになるし、観光振興の文脈から「成功例」か否かと認識される風潮もここから来るものなのかもしれません。

ところが、そもそも観光振興ありきでアニメコンテンツを作るとなると作品における日常性のレパートリーが縛られるのではないか?とも考えられませんか?。毎クール10作品以上アニメを見てる人間なら何となくわかるかもしれませんが、現代日本の世界をモデルにした作品の物語において日常性が垣間見える舞台といえば、東京の近郊をはじめとする住宅街。つまり、サブカル推しの西武線沿線など一部のエリアを除けば、従来の考え方では、とても「観光地」とは言えない地域が各々の作品において日常性を発露させるための舞台装置として描かれているわけです。これまでのアニメ作品全般に描かれている日常性を伴った舞台を見ていると、今の地域観光振興を前提にしたコンテンツ・ツーリズムの文脈における地域やファンが描いて欲しいと思っている舞台背景と、制作側が描きたい(またはイメージしやすい日常性が見られる)舞台背景が乖離し始めているのではないのかな?と私は思うんですよ。

アニメの話ではないのですが、2014年に放映されたタイ映画『タイムライン』の監督・ノンスィー・ニミブット氏が劇中の留学先モデルとして佐賀県内をロケハンした時にこんな逸話*4を残したそうです。同県のフィルムコミッション職員と打ち合わせた際に、最初は職員が有名観光地の写真を見せても監督が乗り気にならなかったのに、呼子の漁村や三瀬の農村といった原風景を見せた瞬間、目の色を変えて取材欲が湧いてきたのだとか。実写作品の話でも、制作側が物語の日常を描く際に好んで参考にされるのは、所謂日本の原風景が見られる地域やベッドタウンなど"登場人物の生活圏"が主であり、それを踏まえると物語が流れている舞台(聖地)と観光を結びつけることは容易ではないことが見えてきませんか?。コンテンツから観光振興に接続させる営みを理想とするのはいいですし、これまで観光地足り得なかった地域から観光を創造しようと取り組むのも結構です。ですが、コンテンツ・ツーリズムの大半の既往研究やオタクたちの言説から読み取れるのは結局、元来からある観光地的な魅力のある地域ばかりを舞台装置として利用するなど従来の地域資源を消費の対象としてPRするやり方固辞しているように見えてならないのです。この思考回路を乗り越えて、観光"創造"を実施するということは、相当な難題になるのではとも捉えることができそうですね。

少々リアルな世界に脱線してしまいましたが、ともあれ「聖地巡礼」が観光振興的な意味でクローズアップされるまでは、描出されていた変哲もない住宅街を特定しアンダーグラウンド的に探訪(巡礼)するというスタイルがメインだったわけです。もちろん、地域の有力者(エスタブリッシュメントにある人間)へ公式にアプローチできていなかったため、浜松の某住宅街が主な舞台となった『苺ましまろ』の聖地巡礼自粛騒動があったりもしましたし、観光振興どころか地域と協働する事例が爆発的に増えることなんて到底結びつかないだろうと2000年代前半までは思われていたものです。もちろん、当時は『ブラタモリ』のような地理・歴史オタク的なディープな"街歩き"ブームもまだ来ていたとは言えず、住宅地をウロウロして写真を撮っているだけで即不審者扱い*5になってしまう時代でしたしね。

 さて「観光地」の話に少し戻るとします。『この世界の片隅に』の片渕監督が作中に登場する広島・呉エリアの某住宅街へのファンの訪問に対し「そこは観光地ではない」という趣旨で訪問自粛をTwitter上で注意喚起するという出来事もありました。これも、昨年の『君の名は。』現象で大衆化した「聖地巡礼」=「観光」というイメージが広く浸透したゆえの注意書きなんだろうと思うのですが、「観光地」だから云々という語りが見られるのは2000年代から舞台探訪(聖地巡礼)を営んでいたオタクからすれば少々哀しくもあったり。舞台を巡るというのは、基本的には「観光地」ではない場所を開拓して街歩きすることに真髄があると考えている故、制作サイド(コンテンツホルダー含む)や地域が公式に"用意"した「舞台」を観光しに行くことのどこに愉しさを感じ取れるのか?と思うわけです。「観光地」だから作品の舞台に行くというよりかは、知らない街の街歩きを『ブラタモリ』みたく深く浅く楽しみつつ舞台探訪(聖地巡礼)がしたい身としてはね。もし、「経済原論*6ならぬ「探訪原論」という講義をうちが受け持つことになったら、まずは地誌や郷土史から数々のムダ知識雑学まで織り込んだ幅広い楽しみ方をお教えしたいものです。流山の『ろこどる』然り、多摩エリアの『NEW GAME!』然り、本宮の『フリップフラッパーズ』然り、普通のベッドタウンと思うところでも意外な知見を得られることもあるかもしれません。

 

なんだか、老害のボヤキみたいになっちゃいましたねw

次の其の弐では、訪れる「探訪」する輩の立場から見たコンテンツ・ツーリズムについてボヤければいいかなと思います。

それでは。

*1:http://mainichi.jp/articles/20170207/ddl/k37/040/410000c

*2:http://www.sakura-saki-project.com/

*3:作品の世界観に浸るために作中で描出された舞台のモデルとなった場所で、そのカットになるべく近似させて撮影する観光行動などを指す。

*4:http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00347198/3_47198_2382_up_dbs8r12y.pdf

*5:時には税務署職員の抜き打ち調査やら、公安の人間やらと勘違いされることもありました(経験談)。

*6:経済学部など社会科学出身者なら馴染みのある基礎専門科目の講座名。公僕試験勢なら、ミクロマクロ。マル経の教授が受け持つと政治経済学っぽくなるアレである。